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  • Itaru

「都市の終わりから思想の始まりへ」 -インフラストラクチャーが持つユートピアの 可能性-

今回の東北大地震は、皮肉にも私たちが都市を考える一つのきっかけとなった。建物は壊滅し、街は消滅した。目に見えないはずの地域コミュニティの崩壊も、可視化できるのではと疑うほどに、現地の人々はバラバラに引き裂かれた。建築のこと、都市のこと、人間関係のこと、安全のこと、環境のこと、高齢化社会のこと、そして社会そのもののこと。考えるきっかけは呈されたが、きっかけが多すぎて何から考えてよいのかがわからない。しかし実際は個々の事柄は密接に関係している。

私はそれぞれの事柄を結びつけ、一つとして考えるための道具、そんなものがあるのではという期待を込めて本文を書く。


今回の被災地にもすでに幾つかのコミュニティが浸透していたはずである。しかし津波により、その大半が消滅しかけている。だが、僅かながらでも地域社会が形成されていたおかげで避難所で孤立せずにすんでいる人々も大勢いるのではないだろうか。家族を失ったときに、周りが他人だけという状況は都市で孤立死する老人にも多く見られる。結局それは彼らを認識する人々の消滅を意味する。本来の意味で人が死に近づくのは、肉体の孤立というよりかは、誰からも認知されなくなることだ。


しかし現行の被災地復興プロジェクトがその現状をうまく解決しているようには到底みえない。現在建設が急ピッチで進められている仮設住宅は、どれも鉄骨にパネルをはめるありきたりなプレファブ建築である。もちろんこの際デザイン性などは考慮されている場合ではないため、最も作業効率がよく、素早く建設できるものが好ましいことから、それは合理的であると言える。しかし問題はその配置方法である。まるでマンションの一層分を取り外して平屋にし、並べただけのような無機質な配列が、従来の団地建築のようにどこまでも規則的に設置されるのである。

テレビを見ていると避難所として利用される体育館などがよく写され、コメンテーターによりそのプライバシー性のなさが嘆かれる。もちろん完全なオープンスペースにまともな仕切りもなく晒されることは、一種の暴力である。だが語られることがプライバシー性についてばかりなためか、その反動として生み出される仮設住宅は、個人をどんどんと殻の内側に封じ込めるような装置と化していく。コミュニティという砦を剥奪された被災者だからこそ、コミュニティが必要だというのに、語られることは個人のプライバシーのみである。他者同士の認識を阻害し、肉体の入れ物と成り下がるのである。わずかに残る相互認識を、既存の仮設住宅は再び破壊しようとしている。


今回の震災において、宮城と福島の違いを考察してみる。

リアス式海岸として有名である宮城県の海岸沿いでは、小規模な湾が大量に連続していることから、津波の威力が拡大され、被害がひろがった。建物は崩壊し、街は土砂で覆われている。

それに対して、福島ではどうか。もちろん福島でも津波はあったが、それによる被害規模は遥かに宮城のほうが高い。しかし私のように東京に住んでいる人間からも明らかなように福島県の現在は暗い。それは原子力発電所という憎悪を振りまく籠城によるものである。

仕事でつい最近、釜石市まで行った。建物が床から攫われ、構造がむき出しになり、土砂の中から蝿が大量に発生していた。しかし、釜石の人々と話をしていると不思議と悲劇の奥にoptimismを抱えていることに気がつく。それは少なくとも自分達にはまだ使える土地があり、全てをゼロに戻したとき、そこから新たな釜石市が蘇るという確信のようなものが覗き見えていたからだと思う。

しかし福島の場合は悲観的になる要素しかそろっていない。いや、それどころか悲観的になる要素すら開示されてはいないのである。何もわからない。果たして自分達がその土地に戻れるのか、あるいは永遠に剥奪されるのか、本当はとっくにそんなことはわかっているのかもしれないが、誰も答えを暴くことができずにいる。しかし、心苦しいのは、比較的多くの建物は無事であるということだ。放射能汚染さえ無ければ、そこには未だに一つの街としての形態を保持している場所はいくつもある。


この違いが生み出すものは、人々の新しい都市に対する価値観の違いである。ゼロの土地があるということは、そこに全く新しい土台を持つ都市が築かれることを予感させる。しかし、福島はゼロというよりは、土地としてのマイナス化がおこってしまった。実際これから先、具体的な調査をすすめていかなければ、悲観的になるには早すぎる。だが、仮に汚染していなかったとしても、その後に残るものはなんであろうか。

現今の日本の地方都市がどうなっているかを考えたとき、語弊があっては困るがあえて言うとすれば、宮城県のように、それを打破する新しい都市システムを考察する土壌が与えられるのは非常に幸福なことである。



日本の地方都市はどこも、ある意味で東京化している。それは1960年代におこったインフラストラクチャーの拡大によるものが大きい。日本最初の高速道路は現在の首都高速の一部である。それが1959年。その後、1964年の東京五輪、1970年の大阪万博という立て続けにおこった国際的行事も後押しして、インフラストラクチャーの拡大は激しさを増す。1964年に描かれたARCHIGRAMの「PLUG-IN CITY」、1961年の丹下健三による「東京計画1960」等は時代を象徴している。そもそもメタボリズムの思想にはコアとなるインフラストラクチャーに、個室が接続されているという形態が埋蔵されている。それは「建築に都市を埋蔵する」と言った原広司よりも、より都市構造を模範した建築群であったと言える。しかし1961年、ジェイン・ジェイコブスの発表した「アメリカ大都市の生と死」を皮切りに、1965年にクリストファー・アレグザンダーによる「A city is not a tree」等の名著により、大都市構想は批判されはじめる。そして、結果的に資本主義の台頭、共産主義の崩壊を迎えることによって、大都市構想は無意味であるという図式がはびこるようになってしまった。しかし不思議なことにそのような批判の中、強大なインフラストラクチャーの構造だけは残り続ける。一人の建築家が一つの規模で都市を生み出すことは不可能であったが、国家という一つの集合体が、個人の思惑を超えて都市を組み替えることは非常に簡単なことであった。

その結果おきたことは、日本全土の東京化である。インフラストラクチャーはしばしば植物の幹に例えられる。それは環境を吸い取り、吸収し、その環境により全てを浸食しようとする。したがって東京という経済的に圧倒的な力を持った環境は、インフラストラクチャーを伝って、地方にまでその影響力をのばすのである。よほどの鉄道マニアか、あるいは駅舎マニアでもない限りは、地方都市の駅前広場の違いを言い当てることはできないだろう。それらはどこも東京を真似るように、都市が形成されている。これは地方都市に限らず首都圏でも同様なのだが、駅前というのはバスターミナルがあり、タクシー乗り場があり、そしてその周辺では最も高層の建物が集まるというお決まりのパターンを所有している。これらの要素をただシステマティックに並べただけの都市計画が違いを生むはずが無い。

ユートピアという言葉はトーマス・モアによって生み出され、シャルル・フーリエがより現実的なものにした。大都市構想とはしばしばこのユートピアに例えられる。しかし、考えてみるとフーリエの提起した「ファランステール」は小さい共同体で自己完結的に生きていこうというものであり、大都市構想の理念からはほど遠い。一方でユートピア的と言われる共産主義は世界をその思想で一色化しようとしていたわけであり、小さい共同体で慎ましく生きていくという思想からはほど遠い。また同じ都市構想でも、黒川紀章の都市構想は自由主義としての資本主義に目を向けているようだが、菊竹清訓の「海上都市」はファランステールを大規模化したようなものを念頭においていたように映る。

各々、全く異なる思想を持っていたにも関わらず、一人の人間がトップダウン的に都市構想をする行為自体がひとくくりにユートピアと称されるようになってしまった。そこには希望に満ちた輝くものもあれば、ニヒリズム的な破滅寸前のものもあり、またおとぎ話的な柔らかいものもあれば、役所の区画整理図のようなものもあるにも関わらず。しかし独裁主義を初めとする、あまりにも多くの負の要素を一緒に抱き込んでしまったユートピアは時代が移り変わるごとに、より胡散臭い思想と見なされるようにならざるを得なかった。



ここで話は東北に戻る。今年の8月頃、私は釜石市で行われた、「これからこの街をどうするべきか」という会議、ワークショップに参加した。人々と話しをしていると、この街が再び蘇るには、観光業が必須であるという話に帰結してくる。釜石はラグビーが有名であるとか、漁業が有名であるとかいった話だ。そのあげくどのような都市形態を望むかと言えば、従来の都市基盤を限りなく再現しつつ、道路が拡張されたり、歩道が広くなったりということがらである。本質的に街をこう変えたいという話はあまりない。

しかしそれも当然と言えば当然である。誰にとっても、この街がどのような状態であれば理想なのか、その答えを出すことは非常に難しい。さらに人は自分の街がどれだけ貧しいものであったとしても、そこにノスタルジーを見いだし、帰還しようとする。極端なことを言えば、街を亡くした人々にとって、最も望ましいのは電柱の位置や、曲がり角の角度、果てはそこに住んでいた人間関係まで、全てが元通りになることなのだ。その不可能性が、新たな可能性を抹殺することを承知でも。

「復興」という言葉が震災以後頻繁に用いられる。しかしその言葉が、何をさしているのかは明確にされてこなかった。何故か。それを語る言葉を持ち合わせていないか、あるいは語る必要がないか、の二択であるからだ。つまり復興した後の都市がどのような形体であれば望ましいかを知る人はいないか、もしくは以前の都市や東京の焼き直しをすることを復興だと思っているか。もし私たち建築家にできることがあるとしたら、その二択しかない状況に追い込まれている人々に新たな選択肢を提示することである。

しかし、ふたを開けてみると、そのワークショップに参加していた数人の建築家達は何も言えてはいなかった。それは私とて例外ではない。ある一つの都市を考えるとき、どうしても話は経済に依拠してしまう。都市そのものの形態がどうであるかということよりも、この街で暮らすには何で食べていけばいいのか、何が収入源になるのか、何が人を惹き付けるのかということのほうが重要だと見なされる。本来ならばこれらの事柄は、本当は都市形態と密接な関わりをもち、それによって左右されるものでもあるのだが、こうなってしまうと他所から来た建築家には何も言えず、ただただ街の人が議題の中心となっていくのである。他所者は街のことを現地人よりは当然知らないのだから、議論に加わるとどうしても、新たな視点を付加しはじめる。そこにどこかばつの悪さを感じてしまうのかもしれない。つまりユートピアのように受け止められてしまうというばつの悪さである。

ユートピアを語ることに挫折した我々は、では何を語ればよいのだろうか。


釜石での話し合いをこのまま進めていても、それはどんどんと東京化していく社会へとなびくだけのような気がした。本質的に、観光業で食べていくという発想は、自らの生活を首都圏との一連の連鎖として捉えている。これだけ情報が交錯し、身体的、精神的ネットワークが充実した現代において、ある一つの地域社会がそこだけで自給自足的に生活することはもはや不可能であるし、意味もない。しかし自らを経済的に首都圏へと依拠させようとする必要は全くないのではないか。そこで地域社会に目を向けた生活をすることこそが、本来は必要なことであるし、そのほうが彼等のコミュニティも長続きするだろう。観光というのは意図して狙ったものよりも、意外なことがその着目対象となることはしばしばある。その結果、人々が訪れてくれればよいのであり、順序を間違えると第二の東京郊外がそこに生まれるだけなのだ。



ではなにをすべきか。地域社会という現代においては名ばかりで、それがなんなのかよくわからないものを保持すること、それはひいて言えば「ユートピア」を語ることこそが今我々には必要な気がする。

ここで私が言う「ユートピア」とはフーリエや共産主義のそれとは明確に区別されねばならない。フーリエの言うユートピアとは現実可能な未来を語る。無理矢理にでも実現させねばならないものを語る。しかしここでいう「ユートピア」は自らの都市思想そのものであり、だからこそ実現可能性にはきわめて乏しくてもよい。

例えば、ある一つの建築にはその建築家の思想が現れる。ミース・ファン・デル・ローエは自らの建築をユニバーサル・スペースと呼んだ。それは間仕切りのない、大空間のことで、それを使い手が自由に仕切り利用する。この均質空間は全ての機能を同質化する。その結果それは資本主義的なオフィスビルの表徴とされ続ける。インターナショナルスタイルの建築が共産主義的な要素を持つ団地と密接な関係を持つことも無視できない。また近代の学校教室が全て同じ形態であることから、人々が教師と生徒にどのような関係性を求めているかが見て取れる。

仮に建築家が語らなかったとしても、建築空間はその背後に作家の思想を抱え込んでしまう。建築における近代化のプロセスというのは、その思想を抹消することを最終目標にしていたのではないだろうか。

私の言う「ユートピア」とはまさにこの思想そのものである。近代都市を夢想した作家たちは1970年代以降ほとんど消え去った。それは冷戦が軟化した時代でもある。それが影響しているのかはわからないが、人々は巨大空想を夢見ることをやめ、それを現実の対比物として捉えてしまったのだ。

私は「ユートピア」というものが必ずしも実現可能なものである必要はないと思っている。もちろんそれが現実的では駄目だということではないのだが。それは建築家が都市に対してどのような思想を自らが持っているかを表す言語なのだ。釜石に集まった沢山の建築家たちは自分がこのような思想を持っているということを、都市構想(それは言葉でもよい)によって表現しなければならなかった。それは現実との衝突に巻き込まれ、恐らく実現しないだろう。だがこの建築家はこんな街を少なくとも思い描いているという事実だけは共有できるのだ。建築家が話し合うというのは、この「ユートピア」をぶつけ合い、議論の場に晒すことである。

地域社会というものは本来、無数の「ユートピア」が集まった場所のことを言うのではないか。隣人を逆なでしないように縮こまりながら、ゴミ出しの日を守ることではないのである。



私が現代において「ユートピア」を考えるとき、その中核にくるべき要素だと思っているものがインフラストラクチャーだ。インフラストラクチャーは確かに、各地を東京という極彩色で染め上げる道具として利用された。建築家はインフラストラクチャーというものに依拠しながらでしか、建築を、あるいは都市を語ることを許されず、それは全てを支配する足かせのようであった。ジェイン・ジェイコブスは大都市批判として、その巨大なインフラ計画を指摘しているが、彼女が対立概念として持ち出す心地よい都市もまた「狭く折れ曲がった道」という名の別のインフラシステムを保有している。

現代の生活基盤において、インフラストラクチャーを亡き者とするには無理がある。それは何千年も昔から道という概念が存在していたことからも、感じ取れる。

しかしそのインフラのシステムそのものをジェイコブスの行ったように、現在のものとは異なったシステムに置換することは可能である。


恐らくこれから先、東北地方では都市の再整備が行われるだろう。今の行政システムを鑑みると、どうやら建築家達に都市規模で何かを提案する機会はそう簡単には与えられなさそうだ。そもそもあれだけの規模を全て再開発することに、高齢化社会に向かう今、どこまでメリットがあるのかもよくわからない。小規模単位での住宅群が、ファランステールのようにそれだけで孤立するのではなく、相互に関係性を持ちながら、東北全体に小さなコミュニティのネットワークを成立させることが望ましい。


そこでもし建築家の側が新たなインフラストラクチャーシステムをそこに投与できるのであれば、それほど望ましいことはない。新たなインフラストラクチャーシステムを構築することは、「ユートピア」を考えることでもある。つまり今の視点よりももう一段階大きな枠組みで建築を考えることである。だからそれは建築家ではなくてもよいのかもしれない。様々な人が関係し合うことが重要である。

さて、新たなインフラストラクチャーシステムを構築すると言うと、都市構造を一掃するような大規模再開発が必要であるかのように思われる。しかし、現実には建築家が一つの建築を建てる行為でも、その構造になんらかの変化を与えることは可能である。

ここで私は建築におけるインフラストラクチャーの関係性を以下の4パターンに分類してみた。

(図版1)

現代建築の多くはインフラ依存している。

そこで新たなシステムを構築する手段として、既存のインフラストラクチャーから逸脱したインフラフリー建築を提唱する。この概念はそもそも既出であり、バックミンスター・フラーの「ダイマクションハウス」等はそれをわかりやすく形にしたものである。しかし遊牧民のような生活スタイルをすることを推奨するのはなかなか厳しいものがある。最初に述べたが人間が消滅するという本来の意味は社会の中で認識されなくなることである。釜石の人々が、というよりも多くの人がそうであるが、一度消滅した町並みを取り戻すとき、全く同じものを復元したいと願うのは、そこに自らの存在証明を見いだすからである。現代社会において人が土地から離れることは困難になった。あえて付け加えるとすれば、道も何もない、ただ建築群が箱をひっくり返したように列挙する光景を見てみたい気もするが。

しかしインフラフリーという概念をもうすこし柔軟に捉えれば、それは必ずしもインフラストラクチャーを建築から消滅せしめることではないのである。

私は上の図でインフラフリー建築を「非インフラ型」「インフラ波及型」「特殊インフラ型」の3つにさらに区分した。ダイマクションハウスは「非インフラ型」である。だが、例えば西沢立衛氏の「森山邸」のように、その一つの建築としてのまとまりの内側に、それらの分棟を相互に接続するインフラが整備されている場合もある。それをここでは「インフラ波及型」と呼んだ。また、都市構造それ自体が現今のものとは全く異なる場合もある。実現しているプロジェクトではないが、例えばArchigramの「Plug-in City」などは上下左右を結ぶ不可思議なインフラを持つ。また地方集落等を訪れると、車の動線と歩道の動線が明確に区分されている。それらを典型的な日本の都市構造と区別する意味で「特殊インフラ型」と呼ぶ。

この内のどれが正しいということはない。しかし、このような視点でインフラストラクチャーを捉えていくと、それは必ずしも、私たちが変動できないものではない気がする。



これから先、遅かれ早かれ、人々はユートピアを語り合う必要が生じる。この数十年、私たちは構築されたシステムに便乗し、考えることを放棄できた。しかし、そんな時代が行き詰まっていることは明らかになりつつある。近い将来、明確な個々人の思想を表明せざるを得ない時代がやってくる。

そのとき、建築家がユートピアを語る一つの指標としてインフラストラクチャーがあるのではないか。もちろん必ずしもそれである必要はない。上でも述べたように、ユートピアとは本来100%実現可能なものではない。一人の人間が大規模なことをやれはしない。そこでは建築家は言葉を失うに等しい。だが時にユートピアが一つの言語となる必要がある。

自らの思想を語る言葉が失われたとき、それを表出する一つの手段としてユートピアは機能しうるだろう。

3.11以後、私たちができることは、そして建築家がすべきことは、それが動かすことのできるものの微量さを知りながらも、今こそ監禁されたユートピアを再び開示することである。




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